昭和44年7月20日   特別奉委員
    【入力者: 末永 満】

 信心しておれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多いと。ほんとにあのそこんところ一つ分らせて頂かなけねばならん、ね。今日はもう朝からほんとに広大なおかげを頂いて、広大なおかげを頂いてというお届けがずっと続けましたですね。

 (?)ここで皆さん美登里会の方達の(?)。原さんのお届けといい、高嶋さんのお届けといいね。もうほんとにあの、もう神様の御演出に恐れ入ると。原さん何かは、いうならば、自分のあの(?)事故に会って亡くなられて、その後何かを今、ずっと思うてみられると、それは大変なことだったけれどもね、もう今考えてみると、もうその神様の演出の素晴らしいのにね、驚いてしまうって。

 もうどうこ驚いてもうしもうて、昨日夫婦であちらへ、その問題でおいでれてから、その後の空間の、間の神様の働きを目の前で見るようにその聞いてきたり見てきたりしておられる。神様にこういう(?)、こういうご都合あることのために、あれがあったこれがあったということなんですよね。

 ただその空間の間は、一つも気がついてないわけですね。目に見えてないもの。ですから、高嶋さんのお話を頂いて、お届けも聞きよってもそうですよ。もうほんとに、の高嶋さん、もう大変なとこをもう随分通らせて頂いたけれど、あんたのお話を頂きよると、ほんとおかげを受けてきとるもんねというようなお礼、お届けですよね。

 したらあの、頂きますのがね、一つの、おー、これに描くならね、ず、(ず)に描くなら、あのこういうふうに・・・字、字は下手ですから、・・・これはこう、こう山の頂点とするなら、こちらから見るとやら、こちらからみちょやらとですね。こちらから、なだらかな大きな道が、これを皆通ったというわけですよね。ここを通ったわけです。で、ここのまぁ、と、峠という、この曲がり角がこうなっとるけん、これから先こげんなってむこうは見えんわけでしょうが、ね。こういうふうになっ、カーブになっておるところだから見えでしょうが。と、ここが丁度頂点らしいんですよ、ね。御心眼を頂く。するともむこうの方(?)ちょっとのぞいて見たら、とても急坂なんですよ。

 ここを一生懸命御装束をつけたけれども、登ってきよるって。こっちの急坂の方ね、そしてこちからは、例えば、高嶋さんのお話にしろ、原さんのお話にしろ、もう原さんの高島さんがこう登っておる。

 そうね、少しは(つまさか)登りで、きついことであったけれどもですよ。ここへ登ってみて、むこうのぞいてみて、分ったわけです。もうほんとにその、空間の間に、今までの間に目に見えないところに神様の働きはどのぐらいなことであった。

 神様にはこういう急な坂を登らせてきとるち。私共はそして、ここにちょっ、ここがおかげの頂点に出会ったわけですたいね。信心のおかげてこんなもんじゃないでしょうかね。だから私達が苦しい時にはね、神様にはもうそれ以上の苦しい、修行をさせておるということを一つ思わにゃいかんのですね。

 そこんとろが、いわゆる、あの他にもいろいろ目に見えないおかげというのはありましょうけれども、そういう意味に、とてもあの、お取次ぎを下さる金光大神の修行というものは、たいへんなことだと。

 神様、私はこんなに苦しいけれども、神様にはこれ以上の、言わば、修行をさせおると分れば、ほんとに、えー、苦しいけれども、もたいなくて泣かにゃおれんというようにですね、もうおかげを頂いて有り難い涙をこぼして、えー、いうのを、ものもある。

 又は、苦しいから泣きの涙でお願をする人もあるばってんから、神様の心を分ってなく氏子は少ないと仰る。こげんなところじゃなかじゃろうとこう思うですたいね。もうほんとにこちら、ちいた坂ばってんが、そんな大したなかちね。

 もうほんとに教えに支えられながら、日々のお参りによって、御理解に沿いながら、ここまでこう来てる、来てる(?)。けれども、こうカーブなっとるむこうの方のがけちもの、こんな妥協ですね。

 それこそ一生懸命、そのかずらんでもすがらにゃ、あののぼらまえちょえところ、一つ(笑)登ってきよる。で、これでやっておかげを頂いてよかったねと、私はほんとに考えてみると、おかげやんね。

 もうほんとに原さん、とてもとても神様のご都合ちはどこにあるやら分からんもんねというのが、ここの頂点のここところなんですね。ですから、私共がどげーん、例えば、苦しかでっちゃ、その苦しかの何倍もの、私は修行を神様にさせおるとこう思うてですね、おかげを頂いていかにゃけん。

 今あの、久富(?)お届けをされるように、うりのお知らせを次々と頂くてね。もう何日もう前から。けれどもそのうりのお知らせがね、すいかになっていくとこを頂くちいう。うりのお知らせはね、えー、いつかこんなことを頂いたことがあるとですよ。

 「高い山から谷底見れば、うりやなすびの花だかれ」ちいうてですね、あの合楽、椛目のたへんの信心の時代だったですが。うりというのはね、もう高いところから(?)神様の世界からごらんになればというね、世の中にはもうそれこそ大変な難儀、うりちいうのは自分の家でも売ってしまわにゃならんちゅうほどの難儀ということです。

 うり、うりというのは、うりやという。うりやと書くでしょうが。それがね、あの久富さんが頂いておられるのは、みんなこのすいかに変わったということ、ね。すいかということは、すいかもいとわない行という、修行のことでしょうけれどもね。

 例えば、ほんとにやはり、ない命でも助けて頂くがよいけれども、助けて頂くと、はーあんと時、な、なかった命を助けて頂いたちいいよるばってん、何時の間にかは、うりがね薄いもんになてってしまう。

 例えば、(?)さんのこと、今の久富さんが頂いておられる御理解から頂くとね、もういつの昔久富さんのはもう家や畑全部売ってしもうとっちゃ足らんごたるですね、(?)とこう通っとられるという修行がなかったら、もうほどに今、たいへんな修行をしよる。
 それを全部修行に変えておられる神様が。すいかに変えておられる。うりやをすいかに変えておるというお知らせなんです。それはほんなこてそうだろうと思いますね。例えばあの、うんー、あちらが足の具合の悪かやつが、入信の動機でしたけれどね。

 けれどもあの時だって、もしあれで病院でちょったらそれこそ、まぁ、少しばの財産が(?)しにゃごたることじゃったろうと思います。それだけのことじゃない、そのことで受けておるおかげというものは。

 だけども、今一生懸命の修行をしておられるけれども、ということがですたい、そのうりやをね、いうなら、こう修行に変えておるというね、すいかに変えておるというようなおかげ。ですから、こういうところはね、私達では分からんわけですよ、ね。

 信心しよってどうしてこういう難儀なことが続くじゃろうかと思うとるけれども、とてもとても、神様のご修行というものはもっとそのそんならことじゃない。いわば、ないものをある。ものにするためのですね、当月の働きを頂よなさるじゃけんで、大変なことだこう私は思うですよね。

 久富さんのお知らせといいです。私が今日、今朝からほんとにおかけを頂いてもうほんとにあの最近はその、おかげのねその、嘘のようなおかげですよ。私ここでお取次ぎをさせてもらいよるおかげを。

 ですから、それはもう人間関係といやず、病気といやずそげんですがね。あのほんとに誰かが、げん、(?)、高すぎな思ってんか。この頃あの京都のねあの、問題のある人次々としましたでしょうが。

 それがちょうどお礼に出てきた時に、高橋さんがあまり(しょうせつ)のごたる話しじゃけん、ちいた神様、(?)がこうつくばらすのごとしてからあげんお話なさじゃったらち思うとったわけですよ。

 ところが、親子の方がお礼に出てきたそのお話を聞いたら、とてもいいよいな(?)なかぐらいなおかげなんですよ。とういようにですね、あの高橋さんの方が感動されたわけですけれども、そういうほんとにおかげというのがね、あの現在合楽のお広前では現れておる。

 そこに一心が求められる信心がね、そして、一生懸命どんな修行しよたっちゃ、神様にさせよる修行それの何倍もの修行であるということを分からせてもろうてですね。目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多いということろを少しでも分からせて頂く信心になったらね、苦しかろうけれども、また有り難いという、または、もったいない。神様へすみませんということになってくるじゃないでしょうかね。どうぞ。